クラシック音楽その他の日記

コンサートに行った時の記録や、その他思ったことなど。基本的に放置状態ですが、ごくまれに更新します。

東京事変のうるうるうるう

自分は椎名林檎と同世代で、22歳ぐらいの頃から、長年にわたり、彼女の歌は、かなりの程度自分の生活に侵食していた。
20代に曝露しすぎて閾値を超えたのだと思う。長時間椎名林檎に触れていると心身に支障をきたす林檎アレルギーになってしまったので、現在では、彼女の動画や音楽にはあまり触れないようにしている。
年に1回、紅白のときに短時間触れるぐらいでちょうどいい。薬は強すぎると毒。


2020年の紅白歌合戦。
うるうるうるう〜能動的閏〆篇〜


椎名林檎の歌詞は、意味深だ。少なくとも、意味深である雰囲気を漂わせている。
これはこういう意味なんじゃないか?ああじゃないか、こうじゃないか、と聴き手が勝手に考え始める。
その様子をみながら、「ふふふ、不確実性(リスク)を楽しみなさいよ」と裕美子さんは楽しんでいるのではなかろうか、
とここで聴衆の一人が想像する。


あれこれ考え、想像する契機がまかれ、聴き手に主体性、能動性が取り戻される。
これが芸術でなければ何なのか。


まあ、2020年はうるう年だったからね。それで閏うなんだろうね。
「閏う」にそれ以上の意味をもたせるかどうかは、聴き手次第。
どうせあたしの人生語呂合わせ(弁解ドビュッシー)。



さて、火種に着火したいといわれても、椎名林檎は、実際に会える距離にはいない。
それに、自分の火種に着火してもらおうと考えるよりも、自分が他人の火種に着火しようと思った方が、いいじゃないか。(能動的に閏年の2020年を締める。)
自分自身のいる場所で、自分の周囲にいてくれる人、少し手を伸ばせば届きそうな人の火種に着火したい。
人間同士のリアルな接触は、他人の心の芯に触れて着火させようと思うこと、他人の前で多少なりとも美しくあろうと思えるようになることに価値がある。


身や心を鍛えようと思ったり、それを実行できたりするのは、他者との関係性において、他者の前で美しくありたいと思えるから、心の芯を着火させてやりたいと思えるような他者が存在するからなのだ。
情報過多の現代においては、インターネットの世界に浸るのではなく、他者を求めて選び取るリアルな接触を通じて、他者の核心を発見してそれに触れて、他者に着火し、そして、自分自身を着火させる必要がある。
周囲の人たちの前で、多少なりとも美しくあろうとすること(いつもより一つ多く、閏おうとすること)は重要。



とはいえ、椎名林檎の歌だけでそれが可能になるわけではない。芸術家である椎名林檎は、個々人の人生に変化を起こす契機ではあっても、個々人の人生の美を継続的に保障するものではない。
自分自身の人生に、美を継続的に生じさせるためには、閏うことを可能にしてくれるような他者が必要だ。
つまり、憧れの対象となる人をもっておくことには意味がある。


できることなら、自分自身が、あの人を着火させたい。


ひょっとしたら手を伸ばせば届くかもしれないような距離感にある他者を着火させることを夢にして、その夢が叶うように、自分自身を少しだけ美しく。
少しだけ美しくなった自分を通じて、自分の周囲にいてくれる他者が少しだけ美しくなる。
そしてその他者を通じて反映された美をもって、自分自身も気づかなかった自分の中の泉を発掘する。


2021年が良い1年になりますように。

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