クラシック音楽その他の日記

コンサートに行った時の記録や、その他思ったことなど。基本的に放置状態ですが、ごくまれに更新します。

コンサート5 (南紫音、2018年6月26日)

コンサートの記録


東京文化会館<響の森> Vol.42
コバケン 名曲アラカルト
2018年6月26日(火)19:00 開演
東京文化会館 大ホール


June.26 2018 7:00 pm
Tokyo-Bunka-Kaikan


<Program>


Beethoven: Romance No.2 in F major, Op.50
Sarasate: Zigeunerweisen, Op.20
Saint-Saëns : Introduction and Rondo Capriccioso, Op.28

Bacewicz: Polish Capriccio


Intermission


Smetana: The Moldau from Symphonic Poems “Má vlast (My Homeland)”
Brahms: Hungarian Dances No.4, No.5
Dvořák: Slavonic Dances No.1 Op.46-1, No.10 Op.72-2
Tchaikovsky: 1812 Overture, Op.49


Ken-ichiro Kobayashi, Conductor
Shion Minami, Violin
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra





このコンサートは、少なからず衝撃的だった。


南紫音。音に色だけでなく、温度を感じさせる稀有な演奏家。


1曲目は、ベートーヴェンのロマンス2番、ヘ長調。心地よく、温かい演奏で、オレンジ色を感じる。
和音の響きに色を見ているというよりは、演奏家の人としてのオーラの色を感じているのかもしれない。
しかし、演奏が始まる前には見えない色なので、やはり、音の色なんだろう。オレンジ色を感じるのは、自分だけだろうか?



2曲目は、ツィゴイネルワイゼン。難しい技巧と格闘する演奏が見られるかと思っていたが、オレンジ色で温かい温度のまま、実に難なく弾きこなしていた。
まるで、時速200キロでも能力の限界まではまだ余裕があり、安全に運転しているようだった。
ツィゴイネルワイゼンをここまで手に収まるように弾いてしまうのを聴いて、すごいと思ったのと同時に、この色と温度は彼女の限界でもあるのかな、とも思った。次の曲を聴くまでは。



3曲目、サン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソ。 曲が始まって少しした頃、ある瞬間に、それまでのオレンジ色と温かい温度が、すっと消えた。
それは、色と温度が突如として変化した、「嘘でしょ?」という瞬間で、それ以降の演奏には、開いた口がふさがらなかった。
日常の煩い事が全て相対化され、生きていることの感覚がなくなるかのような、死への恐れが消えるかのような、不思議な幸福感。
これと似たような体験は、あれは何年前だったか、すみだトリフォニーでペライアの演奏を聴いたときにもあった。
滅多にできない体験だったと思う。こういう演奏が聴けるのなら、何度でもコンサートホールに足を運びたい。



アンコールは、知らない曲だったが、曲の冒頭、ステージ上に赤と白の二色が浮かび上がった。 わりとすぐに消えてしまったけれど、赤い縦長の長方形と白い縦長の長方形が2つ並んでいるように見えた。
コンサートが終わった後の掲示では、アンコール曲について、バツェビチのポーリッシュ・カプリッチォという曲だと、貼り出されていた。


その後、ネットで検索して、ポーランドの女性作曲家、ヴァイオリニストだとわかる。
ポーランドの国旗が赤と白の二色だということに気付いたときは、身体中に電流が走った。だって、このアンコール曲を聴いたとき、曲名も、作曲者も知らなかったのですから。



このコンサートで、南紫音の演奏を聴いたのは6回目でしたが、今までよりも一層素晴らしく、これはもはや、とんでもない卓越さの領域ではなかろうかと、唖然としました。
このような素晴らしい演奏家と同時代に生きられることを感謝して、演奏家へ畏敬の念を抱きつつ、自分の日常の言葉や行動もこのような音楽に近づけていかなければ、と思います。



もちろん、後半の都響の演奏も良かったです。




2月のシェーンベルクも楽しみにしています!






Three months have already passed, but I still think that the cocert in Ueno, Tokyo on June 26 was quite a bit shocking. The orchestra was Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra. The conductor was Ken-ichiro Kobayashi.
Violin, Shion Minami. She is a rare violinist, and her sound has color, and also temperature.


The first number on the program was Beethoven, Romance No.2 in F-dur. A soothing and warm performance, the color of orange. I don't see the color in chords, and It might be that I see the color of her aura. However, I don't see the color before the performance starts, so it must be the color of the sound. I don't know if there are anyone who see the color of orange in her sounds just like me.


The second number on the program was Zigeunerweisen. I expected the performance of fighting the notes requiring hyper-technique, but it remained orange color and warm temperature, and it seemed that she played it truly with ease. It was as if she drove at the speed of 200km/h safely, because it was a piece of cake for her. Having listened to this cozy (not serious) Zigeunerweisen, I felt it was wonderful, and at the same time, suspected this color and temperature might be her limit, until I listened to the third number.


Saint-Saëns, Introduction and Rondo Capriccioso. After this piece began, at one moment, suddenly, the orange color and the warm temperature vanished. It was a moment of wonder, after that, I was totally speechless. Being free from everything of daily life which annoys me, and mysterious experience of happiness, feeling as if I were not living now and even the fair of death would disappear. I've had an experience like this when I went to Murray Perahia's concert in Kinshi-cho, Tokyo ― I can't remember how many years ago it was. This was really a precious experience.


I didn't know the encore piece. At the beginning of it, two colors of red and white appeared on the stage. It was a scenery of red vertically-long rectangle and white vertically-long rectangle were side by side, although it disappeared soon. After the concert ended, I saw a notification saying that the encore piece was "Bacewicz: Polish Capriccio." Having searched, I found out Bacewicz is a female composer and violinist in Poland. And when I noticed the National Frag of Poland consists of two colors of red and white, it sent shivers down my back, because when I listened to this encore piece, I didn't know the name of the piece or the composer.


This was the sixth time for me to go to Shion Minami’s concert. Her performance became more and more fantastic, and I suspected that this might be the tremendous world of music, being stunned. I am really grateful that I can listen to her performance at concert halls, and I think that the onus is on me to speak and act like her sound in my daily life.


Of course, the latter half of the program, performed by Tokyo metropolitan symphony orchestra, was also great.


I am looking forward to Schönberg in the next February!

作業興奮

 
 やる気が出ないときでも、とにかくやり始めてみると、脳が興奮し、やる気が起きてくる。この原理を、作業興奮というようです。
掃除を始めたら、どんどんいろんなところを掃除したくなっていく、というのも作業興奮なんでしょうね。
 だから、「やる気が起きなくても、とにかくやり始めるべきだ。そうすれば自然にやる気が起きてくる。」という。
そうはいっても、「やり始める」のが難しいのだ。



 自分の部屋の中には、色々なものが置いてあるので、どうしても気が散ってしまいます。
 何かの原稿や書面を書かなければならないとき、なかなかやる気がおきず、ついつい、別のものに手を出してしまう(フェイスブックやツイッターのフィードを眺めてしまうなど)ことが、しばしばあります。


 今日もそんな感じだったので、携帯電話も家において、仕事に関連するものだけをもっていき、カフェに行ってみました。(樺沢紫苑氏の「頭を良くする方法」という3分くらいの動画で言及されている方法です。)



 カフェ(ドトール)に行くと、自分が持っているのは、その仕事に関連する素材だけですので、それに目を通すことができました。
 目論見通り、作業興奮が起こり始めました。20~30分くらいドトールで書類に目を通していると、作業興奮がわりと高まってきて、「早く家に帰ってパソコンに向かい、原稿書きの作業を始めたい」という気分になりました。



 やらなければならない仕事に関連する書類だけを持ってカフェに行く
 ↓
 作業興奮が起こり、20~30分後には、「やらなければならない」が「やりたい」に変わる。
 ↓
 作業興奮が起こった状態を維持しながら、家に帰って、その仕事に取り掛かる。



 この手順は、やる気が起きない時に役に立ちそうです。
 ただ、カフェが家から遠いと、カフェから家に帰るまでの間に、作業興奮が弱まってしまいかねないので、なるべく近いカフェがいいですね。



 自分の目標を整理して、意識しておき、自分がそれに集中できるような状況(環境)を作り出していく(=日常の「仕組み」づくりをしていく)ということが、効果的であるように思います。
 自分がある物事に取り組めるように、日常生活上の「仕組み」を作っていくということは、ライフワークなど長期的な課題に取り組むために、有効かもしれません。



 「必要なものだけをもってカフェに行く」というのは、作業興奮を起こさせるための一つの知恵(日常生活上の仕組み)だと思いますが、他にも、自分がやろうと思っていることに集中できるような仕組みを、考えていきたいと思います。

無駄にならない勉強・読書


 お盆休みが終わり、そろそろ仕事に復帰です。


 新幹線の中で、タブレットを使って読む本を探し、樺沢紫苑著『読んだら忘れない読書術』、『ムダにならない勉強法』の2冊を電子書籍で読みました。
 いずれも、良い本だったと思います。



 本を読んだ後、しばらくすると、その内容をきれいさっぱり忘れてしまい、「その本にどんなことが書いてあったか。」を、他人に口頭で説明できないという経験は良くあります。
 
 覚えておくべき知識は、何回も繰り返し覚えることで記憶を定着させるというのが一つの方法で、本にマーカーを引くとか、ノートやカードに書いて覚えるということも、重要なのだと思います。
  
 ただ、断片的な知識を詰め込む、ということになってしまうと、どうしても限界がある。
 
 そこで、読書したら、読んだことのエッセンスを凝縮したうえで、それに自分なりの意味づけをして、自分の頭の中の体系(ネットワーク)に位置付けていくと、記憶に定着するのではないだろうか、と思いました。


 読書した後は、意味づけの作業、「書いてあったことの意味づけを自分の中でどのように行うか」が重要なのだと思います。


 自分の中で、この意味づけができるようになるためには、何のために勉強するのか、何のために読書するのか、という目標(goal)を設定することが、必要条件。


 自分の目指すべき到達地点との関係で、その読書がどのように位置づけられるのか、を意識すること。
 そして、その前提として、自分の思考が、頭の中でどのような体系をとっているのかを把握する(俯瞰する)ことが、まず必要になるのだろう、と思いました。